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自由と革命の時代

七月革命と二月革命 ウィーン体制の崩壊 詳細篇

マッツィーニと青年イタリア

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「さて、今回は「自由と革命の時代」の「七月革命と二月革命 ウィーン体制の崩壊 の詳細篇」いうことで、本編では省略したより深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人はこちらの本編から見てくれよな。」
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「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」

<目次>
1.青年イタリアの結成 1831年
2.ローマ共和国の戦い 1848〜1849年


青年イタリアの結成 1831年

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「さて、まずはなんといってもマッツィーニ(Mazzini)の青年イタリア(Young Italy)だな。1831年12月、この年26歳になるマッツィーニは、カルボナリのような秘密結社活動では限界があると考え「青年イタリア」を結成した。これが、イタリア統一活動を大きく盛り上げるきっかけになったわけだな。」

Giuseppemazzini
マッツィーニ肖像 制作者:不明 制作年代:1870年代

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青年イタリアはカルボナリのような秘密結社ではなく、公に知られた政党ですね。目的も明確になってます。青年イタリアの目的とは、ズバリ「イタリアを共和国で統一すること」。重要なのは、「共和国」としているところですね。言い換えれば、絶対王政はもちろん、立憲君主制も認めず、あくまで「共和政」にこだわったところがポイントです。これが、その後のイタリア統一に大きな影響を及ぼすことになります。」
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「統一方法も革命的だよな。なにせ小部隊の民衆が蜂起するゲリラ戦術で革命を起こす、という方法なので、まさに革命を起こそうとしていたわけだな。マッツィーニは、青年イタリアの活動をサルデーニャ王国で始めるんだが、このような革命運動がサルデーニャ王に許されるわけがない。1833年にマッツィーニは逮捕されてしまった。その後釈放されて、サヴォイアで民衆に蜂起を呼び掛けたんだが上手くいかず、民衆がそれに応えることはなかった。
民衆扇動に失敗したマッツィーニはスイスのベルンに移り、1834年に「青年ヨーロッパ」を結成する。目的は、青年イタリアの精神を全ヨーロッパの若者たちに広げることだった。結果としては。青年ヨーロッパは長続きしなかったが、後の1848年のヨーロッパ各地で起こった革命の遠因になっているな。
1837年にはイギリスのロンドンに渡り、そこで労働者らが選挙権を求めるチャーティスト運動を目にし、労働者の団結が大きな力を産む、ということを確信した。1841年には青年イタリアの一部門としてイタリア労働者連合を設立した。」
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「共和国と労働者は相性がいい組み合わせですからね。労働者らが団結して共和国を作る、というのがマッツィーニの理想になるのもうなずけますね。」
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「そして、忘れてはならないのがガリバルディだ。1834年、この年27歳になるガリバルディは青年イタリアに所属してジェノバで蜂起を試みるも失敗。ガリバルディはフランス経由で南米に逃亡。まず、ブラジル最南端でウルグアイやアルゼンチンとも国境を接しているリオグランデ・ド・スル州の分離独立戦争に独立側で参戦してブラジル軍と交戦。その戦争が終わった後、1839年から始まったウルグアイ内戦にはイタリア人・フランス人から成る混成外国人部隊を指揮して参戦。主にゲリラ戦術で敵軍を苦しめたそうだ。この時の実戦経験により、元々高かった軍事能力がさらに磨かれ、イタリアでの戦いに活かされるわけだな。」
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「この時の南米生活で、ガリバルディはブラジル人の妻・アニータとも1842年(この年35歳)に結婚していますね。」

ローマ共和国の戦い 1848〜1849年

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「さて、次はローマ共和国の話だ。1848年にフランスで二月革命が勃発し、その余波がヨーロッパっ各地に広がったことは本編で説明されているとおりだ。イタリア北部では、サルデーニャ王国がオーストリアに宣戦布告し、第一次イタリア独立戦争とも呼ばれる戦争が始まった。イタリア中部は、教皇が支配する「教皇領」だったが、ここにも革命の余波で11月に教皇・ピウス9世がナポリ王国に亡命。無政府状態となったところで1849年2月9日にローマ共和国が樹立された。」
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「よくある誤解は
「ローマ共和国はマッツィーニが建国した。」
という話ですね。もちろん、青年イタリアの活動を通してイタリア統一を唱えていたマッツィーニは重要な関係者ではあります。ただ、ローマ共和国建国には直接的には関与していないんです。」
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「そうだな。だが、そう誤解するのも無理はないな。マッツィーニはローマ共和国から指導者として招かれ、古代ローマに倣って三頭政治を立て、三頭の筆頭がマッツィーニになったからな。その後、ローマ共和国は教皇の世俗支配権を無効とし、聖職者の私有財産の国有化、教育制度改革、司法改革、出版の自由など、次々と改革を打ち出していくが、これらもマッツィーニが主導したものだ。マッツィーニがローマ共和国の指導者であったことは間違いないな。」

Flag of the Roman Republic (19th century)
ローマ共和国 国旗

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「ローマ共和国建国の話を聞いたガリバルディも、南米からローマに駆け付けて軍事指揮官として加わっていますね。この頃、第二共和政フランスの大統領だったナポレオン3世が、教皇の保護を理由にフランス軍を侵攻させました。フランス軍は、ろくに訓練もされておらず、装備も貧弱なローマ共和国軍を侮っていました。しかし、ガリバルディはローマを流れるテヴェレ川付近でフランス軍を撃退。フランス軍は這う這うの体で敗走しました。」
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「ガリバルディの軍事力が示されている勝利だよな。だが惜しいかな、敗走するフランス軍の追撃を主張したガリバルディに対し、マッツィーニは追撃に反対。このために、フランス軍は態勢を立て直して再びローマに向かい、ローマを包囲してしまった。」
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「建国間もないローマ共和国が、フランス正規軍とまともに戦っても勝ち目はないですね。ローマを包囲されてしまったら、これはもう詰みでしょう。」
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「他からの支援が期待できない状態では、ローマを包囲されたのは確かにマズかったし致命的だったな。1849年7月3日、ついにローマ共和国は降伏し、フランス軍はローマに入城した。しかし、ガリバルディは前日の7月2日に徹底抗戦を主張。約4000の兵を率いてローマを脱出していた。ここから、ガリバルディの逃避行が始まった。フランス軍はもちろん、オーストリア軍、ナポリ王国軍、スペイン軍などにも追撃され、この過程でガリバルディの妻・アニータが戦死。多くの兵士たちも討たれてしまった。それでもガリバルディはなんとか落ち延び、アメリカに逃げることに成功した。
ガリバルディは、約10年後のイタリア王国成立の過程で再び華々しく登場することになる。」
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「一方、マッツィーニはローマに残って市民らに抗戦を呼びかけていますが、ローマ市民らがこれに応えることはありませんでした。また、フランス軍もマッツィーニを捕らえたり殺したりしてしまうと、それがきっかけになってローマ市民が暴動を起こすことを恐れたのか、特に何もしないで放置していました。やがてマッツィーニはあきらめて、スイスへ亡命していきました。
こうして、1848年の革命の波に乗って建国されたローマ共和国は、フランスのナポレオン3世によってあっさり崩壊してしまったわけですね。」
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「結局、1848年にヨーロッパ各地に広がった革命はすべて鎮圧されてしまったわけだ。だが、統一国家の樹立、という流れはこれで止まることはなかった。約10年後、イタリアはサルデーニャ王国のカヴールによって、統一が進められていくことになるぜ。その話は、またの機会に詳しく見ていくことにしよう。」

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